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原作ファンが宝塚の『ポーの一族』見てきた

2018年02月19日 | 映画

さて、1万字近くいく気持ち悪い感想を書きますよっと。
ほとんど余計な話と原作のステマを入れ込んで字数が多くなってしまったんですが。
布教病ステージ4患者なので『原作知らないけど舞台は見た』『原作好きだけど舞台見てない』って人にも双方の魅力が伝わるように書ければなと思いました。欲張りました。

かなり原作好きの視点で話すのでところどころ上から目線に聞こえる表現もあるかもしれませんが他意はありません。宝塚ファンの方々の気分を害してしまうかもしれませんが何卒ご容赦ください。
かれこれ20年近くずっと『ポーの一族』が大好きで、それなりに結構の量の漫画を読んでますが『好きな漫画ベスト5』を聞かれたら『ポーの一族』はランクインさせるくらいには好きです。割と読み込んでいて台詞を若干覚えてるくらいです。
(因みに以前ピクシブにポーの一族系略図をうpったことがあります。ご参考までに↓
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その『ポーの一族』が今回なんとただの舞台化ではなく宝塚歌劇団が舞台化するということでもうこれは見るしかねえだろうと。そして学生時代宝塚ファンだった姉に頼んで先日舞台観劇することが出来ました。
前述の通り学生時代から姉が宝塚ファンで、宝塚の舞台も1度姉と一緒に見に行ったことがあります。確か瀬奈じゅんさんが居た舞台でした。多分『天使の季節』という奴だったと思います。それと他にも日常的に姉がリビングでDVDや宝塚チャンネルを見てたのを後ろから見てたりしてたので、宝塚の世界観には慣れていました。(『エリザベート』とか『傭兵ピエール』とか『満天星大夜總会』とかはDVDなどで見たことがあります)
なので特に『宝塚初めて!』的な目新しい感想はないのですが、原作ファンとして諸々の感謝と感動を綴りたいと思います。





頭から順を追って感想を述べさせていただきます。


◆導入
原作や内容を知っている舞台を見る時は出だしが大事だなーと思います。いや、内容を知ってるかどうかは関係なく、舞台は出だしが大事ですね。まだ『現実』にいるお客さんたちを舞台の世界の中に引きこまなきゃいけないので。
余談ですが『エンターテインメントは短距離走に似てる、最初に最高速度に持って行ってどれだけ減速を抑えられるか』というのが自論です。テレビやニコ動の動画だって途中でチャンネルを変えられてしまったらそれきりですから。「掴みはオッケー」なんて死語もありますが掴みは大事です。
話がそれました。

舞台はまず1964年の空港から始まりました。

この時点で4人の人物が空港で顔を合わせます。
①1865年にエドガーとメリーベルに会ったグレンスミス…のひ孫のマルグリッド・ヘッセン
 (グレンスミスの娘エリザベス、の娘のアンナ、の娘がマルグリッド)
②1879年にメリーベルを殺したクリフォード…の友人だったバイク…のひ孫のバイク・ブラウン4世
 (原作にはこのバイクという人物に当たる人物はいませんが、舞台上で言っている台詞的に原作のこのあたりのキャラかなーという人物はいます)
③1950年にエドガーと『ランプトン』の絵と出会ったドン・マーシャル
④1959年にエドガーとギムナジウムで同級生だったルイス

100年に渡る期間の中でそれぞれが『14歳くらいの巻き毛の美しい少年エドガー』に会っている。これは偶然なのか?同一人物なら彼はどれだけの時間を生きているのだろうか?という、ちょっとゾッとする不思議感で聴衆を引きこむという最高の出だしの演出だと思いました。
(因みに無粋な回答をするとエドガーは1740年生まれなのでこの時点で224年この世に居ることになります)
(因みにこの後、グレンスミスやギムナジウムの話はこの後も舞台でちょっと出てきますがドン・マーシャルのランプトンの話はもう一切出てきませんでした。『原作を知らない人には不親切』という感想を見かけてましたがこのあたりでしょうか?ランプトンが気になった方は原作を買って読んでみていただきたいなあと思います(ダイマ))

1865年:グレンスミス
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1879年:バイク・ブラウン
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1950年:ドン・マーシャル
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1959年:ルイス
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◆クローズアップとロングショット
かつてチャップリンは『人生はクローズアップで見ると悲劇、ロングショットで見ると喜劇』という言葉を残しています。
『ポーの一族』も、エドガーにクローズアップした悲劇と、ロングショットとして『時の織りなす偶然の結び目』として人間たちが思いを馳せる見方の二つの視点の物語が有ります。

クローズアップ
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ロングショット
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ここで思うのは、宝塚であればクローズアップのエドガーにのみ感情を寄せる作りにしても十分に勝負出来たと思うのですが、ここでロングショットの視点もちゃんと演出してくださったのは、『ポーの一族』という作品への愛を感じました。本当に感謝いたします。


◆余談:ジョン・オービン
完全に余談ですが、原作では『ジョン・オービン』という人物が中心人物となって、こうした『エドガーを知っている』と言う人間を集めて集会を開きます。1966年です。
しかし舞台では『ジョン・オービン』は名前すら出てきません。『ジョン・オービン』の呼びかけなくして、時代を超えてこの4人が集まるところから舞台は始まりました。
個人的に『ポーの一族』の中で私が一番好きなセリフは「覚えているよ魔法使い」です。そのくらい『ジョン・オービン』は特別な存在なので、下手に触れられるよりかはこのくらいの措置の方がいいと思いました。風呂敷は広げ過ぎると畳むのが大変なので、あっちこっちに手を伸ばすよりはこのくらいの作りの方が一つの舞台として満足する完成度になると思います。

ジョン・オービン
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因みにジョン・オービンが原作で集会を開くのは1966年です。
しかし原作でも確かにその集会の前に1964年にドン・マーシャルとマルグリッド・ヘッセンの二人は空港で出会っています。
この辺は原作で本人たちの証言が「何年に何があってその3年後にどうこうしてその11年前に」とか話がやたら前後するので面倒くさく、『1964年』という数字は作中でもかなりマイナーで読み流すところです。なのにこの数字を表記してくださったのはかなり原作を読みこんでいただけてるなぁととても感動しました。私も今この感想を書くために必死にアレコレ計算しつつ『1964年』という数字を見つけ出したので感動しました。

念のために改めてこのへんの人間たちに起こったことを原作情報で時系列にまとめるとこうなります↓

1865年 グレンスミスがエドガーとメリーベルに会ったことを日記に記す

1879年 クリフォードがメリーベルを殺害、男爵夫妻も死に、エドガーがアランを一族に加える(原作にない今回の舞台オリジナル設定としてクリフォードの友人バイクが『消えた男爵夫妻』という作品を書く)

1950年 ドン・マーシャルがランプトンの絵を購入した後、電車の中で偶然エドガーとアランと出会い、後日ランプトンの絵に描かれている少年がエドガーそっくりなことに気付く

1953年 ドン・マーシャルがランプトンの絵とエドガーの話を執筆し短編を出す

1959年 ギムナジウムでルイス(マルグリッドの甥、グレンスミスの玄孫)がエドガーとアランと出会う

1964年 ドン・マーシャルがファンレターを貰い「グレンスミスの日記」という似たような作品があることを知り、作者であるマルグリッド(グランスミスのひ孫)に会う(舞台設定ではバイクのひ孫バイク4世とルイスもこの時一緒に集う)

1966年 ジョン・オービンが集会を開く(今回の舞台にはない)


◆オープニング
また話が逸れました。すいません。隙あらばステマしたがる持病を患っています。あわよくば皆さんに『ポーの一族』を買って読んでいただきたい。
話を戻し、空港で4人は『エドガー』についてざわざわします。
「一体彼らは何歳なんだ」
「彼らは永遠の命を持っている」
「エドガーは自らこう名乗っている」
「ポーの一族」
ここで曲が響き渡りタイトルコールとも言えるオープニングが始まります。
「伝説の中に♪青い霧とたそがれと闇の中に♪」
あ!!このフレーズは『グレンスミスの日記』の中にあったあのページのあのシーンだ!!
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見る前は単に『好きな漫画が実写化されたぜヒャッホウ』くらいのノリで深く考えてませんでしたが、そういえば宝塚歌劇はミュージカルでしたね。そして原作『ポーの一族』はそもそも元から作中に頻繁にポエムが入るんですよ。作中のポエムをそのまま歌詞にして曲がついて歌になるってすごく感動しました。歌劇団宝塚が曲を付けて歌にしてくれるなんて、なんて素晴らしくて幸せなんだろう、まさに極上の美!と、ここですでにかなり感動しました。


◆物語の始まり方
『不死だと言った少年は一体いつから生きているのか…』
そう書かれたグレンスミスの日記を閉じるマルグリッド…

エドガー自身も「僕はいつから生きているのか…」と呟き、
「一番古い記憶はメリーベルの泣き声…」
ここからクローズアップの物語がようやく始まります。
ロングショット目線からエドガーのクローズアップ目線への切代わりの美しく自然で素敵だと思いました。
また無粋な回答をするとエドガーが生まれたのは1740年、その4年後の1744年にエドガーとメリーベルは森に捨てられ、ここから物語は始まります。

原作では「ナイフはよしとくれ!放っときゃ死ぬよ!早く馬車を出しとくれ!」と乳母がエドガーたちをただ夜の森に置き去りにするだけです。今回の舞台ではここで「このへんにはヴァンパネラが出るらしいからきっと放っときゃ餌食になるよ!」と言って去って行きます。その後原作通りに「まぁごらん!泣き声の正体はこの子だよ!」と老ハンナがメリーベルの泣き声を聞いて拾いに来てくれます。原作ではここまでですが、舞台ではエドガーが乳母が言っていたヴァンパネラの話を怖がってみせます。それに対して老ハンナは「人間より怖いものなんていないよ」と笑ってエドガーたちを館へ連れて行きました。
そうなんですよね。フランク・キャプラ監督の『群衆』という映画…はまた違うかもしれませんが、怖いのは集団心理です。『ポーの一族』の作中の中でも『信仰』を怖がり警戒するシーンがありますが、『人間の大衆心理』が今のところ何よりも怖いし暴力的だなぁと思います。人間たちはヴァンパネラを何となく怖がってるところありますが、一方でヴァンパネラたちの方が確実に人間たちを恐れています。その中に紛れ込んで生きなきゃいけない<孤独>というのも、この作品や舞台の中での大事なキーだと思います。この話はまた後でアランが出てくるあたりで語らせてください。


◆水車
拾われたエドガーとメリーベル…
老ハンナも、その侍女のレダも、エドガーも、メリーベルを愛して大切に慈しんで幸せに暮らします。エドガーがメリーベルに水車を作ってくれるシーンもありました。
これは後に語りますが私としてはこの『水車』というキーワードは、後にメリーベルがオズワルドに「水車を作って貰ったことなんかないくせに!」と言う台詞とセットだと思っていたので、オズワルドたちのエピソードをカットしてこの台詞が出てこないなら『水車』というキーワードの重要性は半減するように思うのですが、
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暗に『この頃はエドガーたちの時間も流れていた』という暗喩でもあるかもしれないのと、『水車』は『エドガーがメリーベルを愛して大切にしていた物理的証拠』でもあるので、まぁオズワルドへの台詞がなくても大事なキーワードですね。うん。この頃はエドガーがメリーベルに水車を作ってあげたりしていて、エドガーもメリーベルも幸せでした。


◆シーラ
それなりに大きくなったのでエドガーもメリーベルを置いて村の子供たちと遊ぶようになりますが、村の子供たちが「老ハンナの館はヴァンパネラの館だ!」と噂し、「老ハンナは優しい人だ!」と言ってエドガーが村の子供たちと喧嘩をします。エドガーってどうもその美しさから耽美なイメージが先行しますが、結構喧嘩っ早いんですよね。
そこにシーラが止めに入り、シーラとエドガーが出会います。

ところでパンフレット見て驚いたんですが、トップ娘役さんはメリーベルではなくシーラなんですね。作品の中でのキャラクターの重要度を考えるとメリーベルかなって思ってしまうんですが、メリーベルは13歳の少女なので、下級生さんがやらなきゃいけないんですね。なるほど。そうなるトップ娘役さんはシーラになるんですね。
原作がエドガーメインすぎるので宝塚で劇をやるには娘役さんが目立たない話になるなぁと危惧したんですが、エドガーの初恋がシーラなので、その辺を深堀りすればシーラにもスポットライト当たるつくりに出来るなぁ…と思ってたんですが、

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シーラが「男爵との婚約のために来た」と話すとエドガーが割と明るく茶化すように話を聞きました。
あれ?エドガーの初恋がシーラって設定なくすのかな?と思いました。
原作ではエドガーの失恋はこのくらい切なそうでした。↓

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舞台では原作で見せたようなこのような寂しそうな表情は無くかなり明るく接してました。そもそも『エドガーの初恋がシーラ』設定もなくすのかな?と思いましたが、後々にアランに「恋をしたことは?」と聞かれて「あるけどすぐ婚約しちゃった」と語るシーンがあって、あ、やっぱ『シーラが初恋』設定は生きてるのか…と思いました。だとしたらもっと深堀しても良かったのでは?と思いましたが…全体の時間配分や舞台としてのバランスを考えるとこのくらいで済ませた方が良かったんですかね?
ここで『宝塚だから!トップ娘役さんだから!』と、シーラをグイグイ前に出してエドガーの初恋話を深堀しなかったのは、やっぱり原作がエドガーメインであり、エドガーに寄り添ったクローズアップ目線の物語を描くべきだったからなんでしょうか?だとしたら原作やエドガーの気持ちを尊重して頂けている配慮を感じて感謝いたしますが、別にここでシーラを前にグイグイ出したとしても別に怒りませんでしたが…つーかシーラ顔小さい!!!!さすがトップ娘役さん!!

原作読み込んでるとついつい原作との間違い探しをしてしまって良くないんですが…
あと気になった相違点は、シーラが『ポーの一族』をちゃんと理解した上で同意して一族に加わったっぽいところ。
原作ではよくわかってないまま一族に加えられた感があるんですが…
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ここの台詞が舞台では『土に』ではなく『塵に』となってました。
ポーの一族は死ぬと塵となり何も残らないというのが彼らの絶望感の一因なのですが、舞台上のシーラはその点を理解しているようでした。悪いとは思いませんがなんかちょっと気になりました。


◆(相違点)エドガーの思惑
原作通り、この儀式を見てしまったエドガーはその場で見つかり捕まってメリーベルを人質にされ、大人になったら一族に加わることを約束させられ、その代わりにメリーベルを遠くに逃がしてと頼み、メリーベルと永遠の別れをするつもりで見送ります。多分エドガーとしては別れもつらいし嘘を付くのもつらいからメリーベルに早く行ってほしいんじゃないかなと思うのですが、別れがたそうにメリーベルが中々去らずに何度もエドガーのところへ戻り「早く来てまた水車を作ってね」と言うのがとても可愛くて切なかったです。

さて、原作ではエドガーが『僕が大人になる前にヴァンパネラたちが退治されればいい』と画策し、村の子供を介して館の人間がヴァンパネラである噂を流させます。それが裏目に出て、村人たちが押し寄せてきた時に「村の奴らが来る前にこの子を仲間にしなくては」となってエドガーは子供の姿のまま時を止められてしまうのですが、
舞台ではシーラを一族に加える儀式をエドガーと一緒に村の子供たちも覗き見をしていて、そのために村の人間たちが屋敷に押し寄せてくることになります。…『美女と野獣』で村人が野獣の城に押し寄せるシーンもそうですが、ミュージカルだとこういう場面が本当に迫力がありますよね。老ハンナが言ったように、こうなった時の人間が何より一番怖いです。

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さて、エドガーが一族に加えられる時、原作ではこのくらい抵抗してたんですが、

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舞台では割と、自分の運命を受け入れるように毅然と立ち、キング・ポーから血を与えられます。
その辺は『宝塚トップ男役さんだなぁ』と思いました。
実はエドガーは一族に加わるまではそんなに美しいわけじゃなかったんですが、一族に加わってからどんどん美しくなっていくんですよ。ここでカッコよさのレベルが、
一族に加わる前のエドガー<<<<宝塚トップ男役さん<<一族に加わった後のエドガー
くらいなのかなぁと思いました(笑)


◆一族の人間の消滅の仕方
「生きてる」「死ぬ」と言うと語弊を感じるので表現に困惑しますが、「消滅」と言っておきますね。
老ハンナが消滅するシーンはイリュージョンみたいに本当に一瞬で身体が塵となるように消えてかっこよかったです。
ただその演出は老ハンナだけで、後にキング・ポーや男爵夫妻やメリーベルが消滅する際には、イリュージョン的なのではなく、ネロが天使に運ばれるように舞台の奥に運ばれる演出で残念でしたが…塵になる感じかっこよかったのに…
(というか原作ではキング・ポーは消滅してないはずなんですが、舞台では何故か消されてしまいました…)


◆エドガーの孤独
エドガーはヴァンパネラになってしまい目を覚まします。
このへんの葛藤や苦悩は原作でも本当にツラそうで、最近で言えば『トーキョーグール』の金木くんも当初苦しみましたね。
私的に今回の舞台で一番テンションが上がったのはこのシーンを宝塚トップ男役さんが情熱的に悲痛に歌い銀橋を歩くシーン。ただの舞台化ではなく、宝塚で演じるということ…このシーンの歌がどれだけ熱く哀しく素晴らしかったか…もう本当に贅沢で最高でした…暗転した舞台でのトップ男役さんの銀橋渡りは本当にカッコイイですよね!!!

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更に贅沢を言えば、個人的にはこの「手が冷たい!」って言うのも、宝塚トップ男役さんが「手が冷たい!」と叫ぶだけでかなりかっこよかったと思うんですが…

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楽曲は「僕は狂っている、人間を辞めたその時から、僕は狂っている、人間に戻りたいと思いつつ、冷たい手と冷たい唇」という歌詞でした。『狂ってる』という言葉が歌詞に5回出てきなしたが、『冷たい手』という表現は1回だけでした。いや、折角の宝塚なのでこの辺は「手が冷たい!」って大声で嘆くだけでも結構絵になったんじゃないかなーと思うんですが…ちょっと叫んで欲しかったです…


◆ヴァンパネラであること
自分の運命から逃げるように、エドガーはポーツネル男爵とシーラの元から逃げ出し、街に出ます。
ここでミュージカルらしく、『街』である活気にあふれた市場の歌が入ります。さっきまでの森の奥の田舎の村とは全然違う感じが瞬時に感じられます。ただし不自然な感じはありません。あぁここで『宝塚だなぁ』と感謝しました。というのも、『エリザベート』や『傭兵ピエール』などを見たことが有りましたが、中世ヨーロッパは宝塚のオハコというイメージがあります。そして今回の舞台でも1744年の田舎村→街、そしてこの後も1879年の港町→1959年のドイツギムナジウムと舞台が移り変わりますが、それをすぐに瞬時に再現出来るのは日ごろから世界観のストックがあるんだよなぁと感じました。普段からそういう時代のそういう世界の演劇をしてきてる方々なので、その瞬時のタイムスリップ感がとても自然で、そこはさすが宝塚ならではだなぁとこの時思いました。
市場で花売りの娘がエドガーに執拗に薔薇を差し出し、我慢できずにエドガーは花売りの娘の血を吸って殺してしまいます。
原作でも花屋の娘がエドガーに密かに恋をしていたのに対してエドガーはこの娘の血を吸って殺してしまいます。ただし原作では人目を恐れて夜中に決行しています。こんな街中で殺して絶対捕まるだろお前と思いました。尺の都合もあるのかもしれませんが老ハンナが言ったように一番怖いのは人間です。さっきそのせいで村は大変だったのに…不用意な…と思いました。

しかし何はともあれ()人の血を吸って人を殺してしまったエドガーはヴァンパネラであることを否が応でも受け入れなければいけなくなりました。
因みに作中で『人間だったけどヴァンパネラになった』のはこの時点でシーラとエドガーだけです。
かつては初恋の対象でもあったシーラに対して、この点でエドガーは親近感を抱けたかもしれないのですが、原作にはこんなシーンがあります。

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人ではなくなった上に、シーラもこの調子なので、エドガーにはいよいよ唯一の肉親であるメリーベルしか心が頼れる人は居なくなります。「メリーベルに一目会いたい…!」
エドガーがそう願うことで一方その頃のメリーベルの話になります。


◆メリーベルとシーラ
『メリーベルはオズワルドの求愛されるけどオズワルドの父親違いの弟ユーシスもメリーベルを好きになり、そしてオズワルドがメリーベルの腹違いの兄妹だとわかり、オズワルドはユーシスにメリーベルを必ず幸せにしろと言って身を引きますが、ユーシスの母親がかつて夫を取った憎い愛人の娘なんかに息子を渡したくないともう反対し、ユーシスは行き場を無くして自殺し、メリーベルは一人になる』ということをもうほとんどこのままの台詞で一瞬でダイジェスト紹介されました。いや尺の問題もあるしどこかがカットされるのはわかってましたが、配役見た時点でオズワルド役がいらっしゃったのでオズワルド達の話はもっとちゃんと描かれるかと思ってたんですが……もちろん「水車を作って貰ったこともないくせに!」の台詞もありませんでした。
オズワルド達の話がかなり駆け足だったので『一目メリーベルの姿を見ようとエヴァンズ家を訪れたエドガーはユーシスが自殺する夜に居合わせてしまい、オズワルドにユーシスを殺したと誤解される!「嘘よ!エドガーがそんなことするはずない!あなたは水車を作って貰ったなんかないくせに!」しかしオズワルドとエヴァンズ家のために人ならざるものとなってしまったエドガーと対峙する決意をするメリーベル…』…みたいな風に無理矢理この辺は2分くらいで入れてくれても良かったのでは…?と……すいません、オズワルド好きなんです私は…
オズワルドはエヴァンズ伯爵とエヴァンズ伯爵夫人との間に生まれた正統な後継者です。しかしエヴァンズ伯爵は愛人のメリーウェザー(エドガーとメリーベルの母親)のことが今でも好きで、エヴァンズ伯爵夫人も愛人との息子であるユーシスばかりを溺愛しています。両親の愛情不足だったオズワルドがそれでも長男としてユーシスもメリーベルも愛そうとしてた中でメリーベルに「水車を作って貰ったことなんかないくせに!」と言われるのはかなり残酷なセリフだったんですよね…オズワルド可哀想に…私はオズワルドとマドンナの夫婦凄く好きだったよ…今回の舞台にはマドンナが欠片も出てこなかったけど・…3分くらい尺を貰えれば……
……すいません。

舞台上では単に『オズワルドが身を引いた後にユーシスが死んでしまい、「私を愛してくれる人は居なくなってしまった…エドガーに会いたい!」』となるメリーベル。呼応するようにエドガーも一目メリーベルに会いに来て…
「僕たちは遠くへ行くんだ、永遠の旅に出るんだ、もう二度と会わない」
「一緒に行く!どこまでもお兄様と一緒に行くわ!」
となります……
原作ではこの時、『エドガーがユーシスを殺した』ということになっていて、メリーベルはかなり思い悩んだ末に『ユーシスを殺したエドガーを憎むことにする』と決意を固め、そしてエドガーが人ならざる者になったとわかった上で、それでもどうしようもなく「エドガー!私ずっと待ってたのよ!」とエドガーに縋るシーンが情熱的なんですが…
シーラとメリーベルでその辺はバランスとってるんでしょうか?
原作ではシーラはよくわからないまま一族に加わってますが、舞台ではわかった上で一族に加わっています。
原作ではメリーベルはわかった上でエドガーに付いて行きますが舞台ではよくわかってないまま一族に加わったように見えます。
トップさんがメリーベルではなくシーラだったこともあり、この辺はそういう感じにしたんでしょうか?

舞台上ではシーラたちが『永遠の時を生きなければならないから愛が必要なんだ』と歌います。
そして新しい仲間が必要なため、ようやく一家はアランたちが居る街にやってきます。


◆ホテル○○
1879年ホテルブラックプール!
原作にはこのようなホテルは出てきませんが、舞台セットとして特定の場所で物語が展開するように、エドガーたちが宿泊するホテルであり、クリフォードたちが婚約パーティをする場所を『ホテルブラックプール』としました。後世にクリフォードたちの話を伝える役としてバイク・ブラウンというオリキャラも出てきます。
ところで宝塚に『ホテル○○』って舞台ありましたよね、なんでしたっけ、あぁそうそう、『ホテルステラマリス』だ。名前しか知りませんが姉がしきりに言ってました。私はちゃんと内容を見たことはないのですが…
また話が逸れました。いや、ホテルが舞台になったことで宝塚の安定感を感じてオリジナル設定にも関わらずちょっと安心したんです。

貿易で栄えた港町という設定でホテルも活気にあふれています。
そんな陽気なドレスと美男美女と歌と踊りの中で、登場するポーツネル男爵一家……

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このシーンの再現度がとにかく高かったです。こう、『大勢が居る中でも一際目だっている』というのがわかる演技力というか構成と言いますが…単にスポットライトを当ててるとかじゃないんですよね。ホテルのロビーへ二階から降りてくる階段へ男爵一家が現れると、少しだけ周囲の人々もスローモーションになり、照明の色が少しだけ紫がかって黒くなったり…動きの緩急と、あとやっぱり全員美しいのでその中で『一際美しい人たちが来た!』感の…なんて言えばいいんでしょうね…語彙力がなく不甲斐ないばかりですが…とにかくこのシーンの『空気』の再現度が凄かったです。元々公開前から『外見の再現度が高い!』というのは騒がれていたことですが、空気全体の再現率が高いというのは本当にすごかったです。


◆クリフォード
メリーベルを殺すことになるキー人物クリフォード。原作では女ったらしっぷりとそのクズっぷりが過剰に描かれてますが、舞台上ではその女ったらしっぷりは少しセーブされてました。女性たちからかなりモテてた描写はありましたがクリフォードからナンパするような軽薄なシーンはあまりありませんでした。宝塚の役者さんだから爽やか補正されてるのかな?私の目からそう映っただけかな?男役さんがカッコ良くて?でも男爵からの握手には応えなかったのにシーラとは握手したシーンはありましたね。そこらへんに感じの悪さは演出されてました。
ちなみにアランの母親もクリフォードの診察のせいにはおめかしするそうです。原作にはそういう設定はありませんでしたが…
原作では常にベッドの上だったアランの母親が舞台では立ち上がって歩いてたシーンがあったので「クララが立った!」みたいな気になりました。
あとマーゴットも原作ではとにかく嫌な女子でしたが、舞台ではアランの態度に傷付いてるような様子がチラチラあって可愛く補正されてました。宝塚娘役さん補正ですかね。そうなるとアランの態度が彼女を傷付けていてアランよりもマーゴットに同情するシーンがありアランの不遇っぷりが薄れてしまいますが…


◆パブリックスクール
学校では生徒たちが「転校生が来るらしいぞ!貴族なんてどうせ鼻持ちならない奴さ!」と歌います。少し前はポーツネル男爵やエヴァンズ伯爵たちの地位が尊ばれていましたが、時代が進み爵位があまり意味をなさなくなったこと、そしてそこが貿易で盛んになった港町であり利益や財産が注視されていることがこの歌詞からわかります。爵位より財産。そしてこの街で一番の金持ちで権力者なのはアランたちのトワイライト家です。もはや学校の主顔のアランが「僕が右を向けと言ったら向くんだ!それが僕の規則だ!」と歌います。アランの家来顔の生徒たちとエドガーが喧嘩になるところもミュージカル調でかっこいいです。
そして村の子供たちと喧嘩をしていたエドガーの性格は相変わらずで、ここでもエドガーは生徒たちと喧嘩をします。喧嘩っ早いんですよねぇエドガーって…
あと因みに少し違和感があったのは、みんながアランに取り入ろうとアランに必死に話しかけていたところ。『アランに取り入ろうとしている』というのがわかりやすくて、舞台ではそう演出するしかないのかぁと思いますが、アランは話しかけられるのを嫌がっていたので、原作では誰もアランから話しかけるまでアランに話しかけてはいけないことになっていました。「僕が声をかけるまで声をかけるな!」もアランの規則でした。身分が低い人からは話かけちゃだめってベルサイユかよ。今日のベルサイユは凄い人ですこと。


◆聖書@ミュージカル
自分の御機嫌を取って来ないエドガーに心を許すアラン。
アランが心を許してくれたのでエドガーはアランの首に唇を寄せ、ヴァンパネラであることをかんづかれ、アランが咄嗟に聖書の言葉を唱えるシーンがありますが、このシーンは
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この最後の嘆き方、泣き方からしてもアランの心情にとっては大事なシーンなのでミュージカルとしては歌にすべきなのかもしれませんが…歌にされてしまうと『聖書の言葉である』ということがちょっとわかりにくいなぁと思いました。ここは原作では突拍子もない話をしだしたから聖書の言葉か何かかなぁと思うのですが、歌にされると、ミュージカルで突拍子もなく歌いだすのはよく在ることなので、そういうシーンなのかなぁ?と思ってしまって、『聖書の言葉である』ということがちょっとわかりにくくなってしまうなぁと思いました。


◆孤独
そして舞台ではアランが「なぜ僕を選んだんだ!」と叫びますが、原作ではこういった台詞はありません。
何故ってアラン、お前、そりゃ…

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アランもエドガーと同じ『孤独』だったからでしょうね。
人でもなくヴァンパネラの中でも浮いていたエドガーはメリーベルだけが唯一でした。
街中を支配する力を約束されていて取り巻きがたくさん寄ってきてもアランは一人でした。


◆メリーベルとフューチャリングエリザベート
メリーベルに求婚しに行くアランは「私たちと一緒に遠くへ行く?」とメリーベルに聞かれ、そしてエドガーが再びアランの首に唇を寄せますが、メリーベルが「ダメ!その人!まだ未練があるわ!」と止めます。
なんだか『エリザベート』を彷彿とさせました。
(エリザベート:宝塚の別のお芝居。『死』の概念であるトート閣下に見初められたエリザベートは自ら死を望むように八方ふさがりの不遇の人生を歩み、中盤で一度死を望むもののトート閣下に「まだ私を愛していない!」と言われ生きながらえるシーンがあります)
ラストで母に裏切られたことを知り、叔父を殺してしまったかもしれないと思うアランは八方ふさがりの状況に追い詰められ、そこに現れたエドガーに「行くよ、未練はない」と言ってその手を取りますが、だからエリザベートを彷彿とさせました。
『ポーの一族』原作と、宝塚文化についてある程度の予備知識の両方があった私は、このあたりは楽しかったです(笑)


◆舞台オリジナル設定
舞台のオリジナルシナリオとして、降霊術を行うイベントがあり、そこでポーツネル男爵は死んだキング・ポーからのアドバイスを受けます。
原作にも降霊術を行うシーンはありますが、かなり後々にエドガーがそのイベントに参加し、降霊術者を殺しています。
ここでキング・ポーの霊が出てきてしまうと、『ポーの一族は消えたら何も残らない』という絶望感が無くなってしまうんじゃないかなぁと思います。それとキング・ポーを死んだ設定にしてしまうのはアレだったんじゃ……

そしてポーツネル男爵とシーラがホテルのロビーで塵となって消滅し(舞台上の演出ではネロが天使に運ばれるように舞台奥に運ばれますが)、その一部始終を見ていたバイクは『消えた男爵夫妻』を執筆すると公言しました。原作にはこのような展開はありません。そしてこのバイクのひ孫が舞台上では1964年にドン・マーシャルやマルグリッド・ヘッセンやルイスたちと会うことになります。


◆ギムナジウム
アランをエドガーは仲間に加えて、時は過ぎて1959年…
ドイツのギムナジウムで少年たちがアップテンポな曲調で陽気にヴァンパネラの歌を歌い子供らしく活発にはしゃいでいる中、意味深に佇むアランとエドガー…
つまり原作でいうこのシーンで終わるわけですが、

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舞台では柵の向こうではなく学内に一緒に居ますが、どこか他の生徒たちと異なる雰囲気の二人…
台詞や言葉にこそ出していないけど、その様はまさに

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実際にこの台詞はなかったんですが、もうそこに居る姿が「そうそれ!印象的!」という感じでした。
それをそこにいる空気間だけで再現してくださった宝塚歌劇には本当に感謝です。


◆エンディング
そしてオープニング同様、ラストはこのポエムがそのまま歌詞となり、曲がついて歌となってました。そういうのが原作ファンとしてはとてもとても感激で感動でした。胸熱です。

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◆フィナーレ
宝塚名物大階段ですね。因みに舞台脇にずっと『P』というポーツネル家の紋章のようなものがありましたが(原作には特にそのような紋章的なものは無い)、大階段にもそれが描かれていて、よくよく見ると皆さんが持ってるシャンシャンにもその『P』の紋章があって、なんか宝塚の華やかな美男(?)美女の皆さんがみんなポーの一族の『P』というシャンシャンを持って笑顔でいてくれているというのが、原作ファンとしてはなんかすごくうれしかったです。愛されてる感があったというか……


◆要点
『宝塚に演じていただいた感謝』をピックアップしますと、
1.原作のポエムを貸しにして曲を付けて歌にしてくれた
2.1744年の田舎村→街→1879年の港町→1959年のドイツギムナジウムと舞台が移り変わるの中で瞬時に世界観を再現して頂いただけた
3.すらっと細い手足、シーラの小さな顔、エドガーの美しさ、美目をこの上なく再現して頂いたこと
4.メリーベルとエドガーのお互いを思い合う演技、孤独を嘆くエドガー@宝塚トップ男役さんという最高の贅沢、一族の異質っぷりの空気までも再現していただいた再現率の高さ、表現力の高さに感謝


◆年表
これは完全に余談ですが原作ファンとしてエドガーの歴史を今回の舞台に関係する辺りを時系列で書いておきます。もし観劇する方はご参考になさってください。

1740年 エドガーが生まれる

1744年 メリーベルが生まれる、エドガーとメリーベルが森に捨てられる、老ハンナに拾われる

1754年 エドガーが『ポーの一族』になる(当時14歳)

1757年 メリーベルが『ポーの一族』となる(当時13歳)

1865年 グレンスミスがエドガーとメリーベルに会ったことを日記に記す

1879年 クリフォードがメリーベルを殺害、男爵夫妻も死に、エドガーがアランを一族に加える(原作にない今回の舞台オリジナル設定としてクリフォードの友人バイクが『消えた男爵夫妻』という作品を書く)

1950年 ドン・マーシャルがランプトンの絵を購入した後、電車の中で偶然エドガーとアランと出会い、後日ランプトンの絵に描かれている少年がエドガーそっくりなことに気付く

1953年 ドン・マーシャルがランプトンの絵とエドガーの話を執筆し短編を出す

1959年 ギムナジウムでルイス(マルグリッドの甥、グレンスミスの玄孫)がエドガーとアランと出会う

1964年 ドン・マーシャルがファンレターを貰い「グレンスミスの日記」という似たような作品があることを知り、作者であるマルグリッド(グランスミスのひ孫)に会う(舞台設定ではバイクのひ孫バイク4世とルイスもこの時一緒に集う)

1966年 ジョン・オービンが集会を開く(今回の舞台にはない)





以上、ありがとう宝塚。


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